
グラントの第一次作戦は2手に別れた動きだった。シャーマンが32,000名の部隊と共に船でミシシッピ川を下り、グラントは40,000名の部隊を率いて川に沿って鉄道で移動するというものだった。グラント軍は80マイル (130 km)進んだが、南軍のアール・ヴァン・ドーンが指揮する騎兵隊にホリー・スプリングスで補給線を絶たれたために、後退を余儀なくされた。シャーマンはビックスバーグ市の真北にあるヤズー川まで到着したが、グラント軍の支援が無いままに12月遅くのチカソー・ブラフの戦いで損失を出し撃退された。 この時に政治的な思惑が入ってきた。イリノイ州の政治家で少将のジョン・A・マクラーナンドがリンカーンからの許可を得てイリノイ州南部で徴兵し、ビックスバーグを目指して川を下る遠征隊の指揮を執った。マクラーナンドはシャーマンの軍団を自分に割り当てられる予定だったが、マクラーナンドが到着する前にシャーマンはメンフィスを離れていた。シャーマンがヤズーから戻ると、マクラーナンドが軍団の管理権を行使した。マクラーナンドはアーカンザス川のアーカンザス基地を占領(アーカンザス基地の戦い)することで初期の目的からは不可解な回り道をしたが、その主要行動を再開する前にグラントが再び指揮を執り、マクラーナンドはグラントの軍団指揮者となった。冬の残りの期間を使ってグラントはビックスバーグの町に取り付くための5つの別々の計画を試みた。それらはビックスバーグの北にある川、運河やバイユーを使って移動し土木工事を伴うものだった。5つの計画全てが失敗だった。グラントは後にこれらの失敗工作は予測していたことであり、単に兵士を休ませないためと士気を上げるためにやったと説明したが、多くの歴史家はグラントが真に幾つかは成功するものと期待していたと信じ、またそれらの計画が大がかり過ぎたとも思っている。 第二次作戦は1863年の春に始まり最終的に成功した。これは南北戦争の中でもグラントの最大の偉業と考えられており、また軍事史の中の古典的作戦でも最大のものと見られている。グラントは、その補給線が脆弱であり、川を使った接近が繰り返し失敗していたので、北西からミシシッピ川を通って攻撃するのは不可能と判断した。冬季の雨が終わりぬかるんだ道でも通れるようになったときに、グラントは大挙してミシシッピ川の西岸に軍隊を繰り出した。4月16日、アメリカ海軍の砲艦と輸送船がビックスバーグの大砲の下を擦り抜け、川を渡ってビックスバーグの南、ブルーンズバーグに上陸させることに成功した。グラントはその意図を隠すために2つの陽動作戦を用意した。FX 初心者 の北にいるシャーマンの部隊による陽動とミシシッピ川の中央からベンジャミン・グリアソン大佐に行わせた大胆な騎兵隊の襲撃(グリアソンの襲撃)であった。シャーマンは結果が出なかったが、グリアソンは成果を上げた。グリアソンはかなりの数の南軍部隊をおびき出し州内に分散させた。 グラントはこの作戦で南軍の2つの部隊と対峙していた。1つはビックスバーグの守備隊であり、ジョン・C・ペンバートンが指揮していた。もう1つはこの戦線の総指揮官ジョセフ・ジョンストンが指揮するジャクソンの部隊であった。グラントは単純に北にあるビックスバーグに向かうよりも、2つの南軍の通信線(かつ補給線)を遮断することを選んだ。グラント軍は素早く北東のジャクソンに向かった。一方でグラントには限られた補給線しかなかった。軍事作戦の伝統的な歴史から見れば、日経225 はその補給線から解き放たれている状態であり、5月12日のレイモンドの戦いで存在しない補給線を遮断しようとしたペンバートンを戸惑わせた。実際のところ、グラントは人馬の食料のみを地域経済に頼っていたが、その軍隊に弾薬、コーヒー、堅パン、塩などの物資を運ぶ荷車の流れが常に付いていた。 シャーマンの軍団が5月14日にジャクソンを占領した(ジャクソンの戦い)。全軍は西に転じてビックスバーグの前線にいるペンバートンと向かい合った。決戦はチャンピオンヒルで行われた(チャンピオンヒルの戦い)。ペンバートンは最後の抵抗を試みた後、町の周りの塹壕の内側に退いた。グラント軍はビックスバーグの戦いの初めに2回、南軍に総攻撃をかけ大きな損失を被った後は長い包囲戦に移った。 ビックスバーグの兵士や市民は北軍の砲撃や差し迫ってきた飢えに苦しむようになった。ジョンストン将軍が援軍に到着するのを期待していたが、ジョンストンは行く手を遮られ、また慎重になりすぎていた。7月4日、ペンバートンは軍隊と市ともどもグラントに降伏した。その前日のゲティスバーグの戦いでのロバート・E・リー将軍の敗北と共に、ビックスバーグは南北戦争の転回点と考えられている。7月8日までにバンクスがハドソン港を占領(ポートハドソンの包囲戦)した後、ミシシッピ川全流域が北軍の支配下に入り、南軍は分断された。 ローズクランズはストーンズリバーの戦いでの勝利の後、マーフリーズバラをほぼ6ヶ月間占領し、ブラッグはタラホーマにあって後方の戦略的に重要なチャタヌーガ市を北軍から守るために長い防衛線を布いていた。1863年4月、北軍のエイベル・ストレイト大佐の指揮する騎兵隊が中央テネシーのブラッグ軍に物資を補給している鉄道の攻撃に動き、ブラッグ軍をジョージア州まで撤退させることを期待していた。ストレイトの騎兵隊はミシシッピからアラバマを荒らし回り、ネイサン・ベッドフォード・フォレストの部隊と対抗した。ストレイトの襲撃は5月3日にジョージア州ロームの近くで疲れ切った部隊が降伏した時に終わった。6月、ローズクランズは先物取引 にブラッグ軍に対して動き、タラホーマ方面作戦では輝かしいほとんど無血の勝利を挙げ、ブラッグ軍を中央テネシーから追い出した。 この期間、南軍のジョン・ハント・モーガンが2,460名の騎兵隊を率いて、6月11日に中央テネシーのスパルタから西に乗り入れ、ノックスビルに向けて動いているアンブローズ・バーンサイドのオハイオ軍の注意をテネシー州南部にいる南軍から逸らさせようとしていた。タラホーマ方面作戦の開始時点でモーガンは北に進軍した。モーガン隊は46日間で1,000マイル (1,600 km)を乗り回し、テネシーから北のオハイオまで橋や鉄道や政府の倉庫を破壊した後に捕獲された。11月、モーガン隊はオハイオ州コロンバスの刑務所から大胆な脱走を成し遂げ、南部に帰還した。 ローズクランズはタラホーマで数週間を過ごした後、テネシー川を渡り南に向かって南軍のジョージア州からの補給線を遮断することで、ブラッグ軍をチャタヌーガから追い出す作戦を立てた。ローズクランズは8月18日に行動を開始し、陽動作戦としてチャタヌーガに2週間先物取引 を加えた。アメリカ連合国の上層部はミシシッピの師団とバージニアのジェイムズ・ロングストリートの軍団を送ってブラッグ軍を補強した。ローズクランズはブラッグ軍をジョージア州北西部の岩だらけの山岳地帯に追って行ったが、そこでは罠が仕掛けられているだけだった。ブラッグは9月19日から20日にかけてチカマウガの戦いを仕掛け、ジョージ・ヘンリー・トーマスの軍団に対して3個師団で総攻撃を掛けさせた。北軍の応援が到着したときに指揮系統の誤解で前線に大きな隙間が生じ、ロングストリートはその隙に付け込んで北軍を撤退させた。トーマスが配置していた防衛的部隊(「チカマウガの岩」)がいなければ、北軍は総崩れになっていたはずである。ローズクランズはこの敗北で落胆し、軍をチカマウガまで退いたが、これをブラッグ軍が包囲し、町を見下ろす高台を占領した。


